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027 - We'll go to Plan B. You got it?

ゲーム業界の現状に関する分析、第4回です。
ここまでの一連の記事で、色々とゲーム業界の現状やら問題点に関して書きましたが、
今回はそれへの対処、つまりゲーム業界に今後どういう道があるのかについて、
自分なりの考えを書いていこうかと思います。

とりあえず結論から言うと、その道は4通りあると考えます。
それぞれ以下で説明しましょう。

<1:今まで通り>

これは文字通りの道です。
ひたすら体力勝負で、ボリュームを増やしていくという従来の方法を続けます。

勿論その方法に問題があることについては、一連の記事でも指摘したわけですが、
だからと言って全員がそれに対する解決を行えるわけではありません。
技術やら何やらの都合で、今まで通りにするしかない場合も、世の中にはあるでしょう。

また先の記事で取り上げたダウンロードコンテンツやオンラインゲームもここに含めます。
「ユーザーとの縁の切れ目」に対しては一応のブレイクスルーではありますが、
継続的にゲームに関わることになる以上、それは相応の体力を要求されるからです。

更に、ケータイゲームもここに含めます。
小粒で小額である以上、とにかく短いスパンで数を出さなければ収益化は難しいです。
それは結局のところ、体力勝負に他ならないでしょう。
体力配分が、個別の長期であるか、連続した短期であるかの違いです。(※1)

 ・利点:何も変えなくていい。
 ・欠点:体力が持たなくなったら行き詰る。

<2:体力を温存>

これは1に工夫を加えたものです。
ボリュームを増やすという方針は同じですが、その増やす手段を工夫します。

第2回の「Basic 3 levels of "Love is over"」で、ゲームボリュームは
「やりこみ要素」と「奥深さ」との積算の総和であるというイメージを提示しましたが、
これを踏まえるとボリュームを増やすには、「やりこみ要素」を増やすのと
「奥深さ」を増やすことの2種類が考えられます。

このうち「やりこみ要素」を選んだ場合、1のケースになります。
つまり体力勝負で、ひたすら物量を積み上げて山盛りにするというものです。
ここでは、往々にして「奥深さ」は度外視されがちです。
(ここまでの論旨でも暗黙のうちにこちらを取り扱ってきました。)

対して「奥深さ」を選ぶと、ここで説明する2のケースになります。
この方法では、最低限必要な材料としての「やりこみ要素」の物量を用意したとして、
その後は「奥深さ」を追求することになります。
こうすると、ある種の化学反応のようにして、互いが互いを論理的に増幅し、
「自分で勝手に山盛りに膨れ上がる」というわけです。(※2)

 ・利点:体力を温存できる。
 ・欠点:頭脳(高度に洗練・調整された仕様)が必要で、その実現は容易ではない。

<3:一点特化>

これはゲームのボリュームを追求することから決別し、ゲームが提供する体験に特化する道です。
俗っぽく言えば「このゲームではこんな経験ができる!」というウリを一点定め、
そこにパワーを集中し、それ以外は「かなり大胆な」割り切りを見せるということです。

この内容は第1回の「So what's next after the dream?」の記事で既に書いていましたが、
ゲーム業界の現状に対して、最もクールでスマートな変革だと思います。
(同時にここを目指さないときついのではないかと思う所のものでもあります。)

 ・利点:少ない体力でもインパクトを発揮できる。
     決まれば名作になる可能性が高い。(※3)
 ・欠点:作り手の名人芸が要求される。
     外した時のダメージが大きく、そのリスクはビジネスとして取りにくい。

なお、この道についてはもっと掘り下げた話もできるのですが、
そうするとそれでまた記事がひとつ書けるような勢いだったりしますので、
ここではその話は避けておきます。機会があれば、また別途記事を書こうかと思います。

<4:産業転換>

先の記事で「永遠に続く産業など存在しない」という宿命について言及しましたが、
これはその宿命に従い、時代に応じた産業転換を行うという道です。
ゲームを作るノウハウを生かす形で、他の業種にゲームの風を送り込み、
コラボレーションを行っていくとかのような方針になるでしょう。

では具体的に何をやるのかという問題になるのですが、
残念ながら現状では、これに関する先例は皆無と言わざるを得ません。
つまり誰も答えを知らない中、どこかにある答えを探っていく必要があるわけです。(※4)

 ・利点:新たな道が開ける
 ・欠点:先例が殆ど無く、誰も答えを知らない

とは言え、ヒントが無いわけではありません。ひとつ示唆的なニュースがあります。
バンダイナムコゲームスがゲーム風教科書をプロデュースしたというものです。
「4Gamer.net:ゲーム業界初の試み。バンダイナムコゲームス,学校図書と共同で小学校向けの教科書を制作」

ちなみにこれは「紙の教科書」の話ですが、個人的にはこういうものでこそ
電子書籍のポテンシャルが本領を発揮できるのではないかと思います。

ゲームという概念そのものはアナログとデジタルという区別を超越しますが、
それでも「紙の教科書」はアナログで、「作品としてのゲーム」はデジタルである以上、
両者の境界をまたぐ際に色々なものがロスになるでしょう。
その点で、この教科書が電子書籍であれば、それはデジタルな存在なので、
同じデジタルのフィールドの上で、より直接的で自由なコラボレーションが実現できるはずです。

折りしも(タブレットPCの先駆者として)iPadも出たことですし、
これから電子書籍はますます普及していくことでしょう。
初等教育向けのゲーム風な電子教科書なんていうのは、かなり面白そうだと思います。

<第4回まとめ>

以上、ゲーム業界の今後に関して書きました。
あくまでこれは自分の考えなので、他にも道があるのかもしれません。
いずれにしても「今まで通り」というのは、もうそろそろ無理なのではないかというのが
個人的な見解であり、何らかの方法を探る動きが出てこないものかと思っております。

<全体まとめ>

一連の記事を通じて、ゲーム業界の現状・問題点・今後の道などについて書きました。
書いているうちに色々と話が膨らんだりして、正直な所まとめ切れた自信はありません。
とりあえず自分の力の及ぶ限りのことを書いたつもりです。(※5)

これについては、皆様の感想は様々なことでしょう。
もしかしたら「お前は業界の事情を何も分かっとらん」とか
「こんな所でグチみたいに書いてないで行動しろ」といった意見もあるかもしれません。

前者については、確かに自分は業界の事情には特に詳しいわけではありません。
ですので、より深い事情に触れた分析は、それを知っている方に譲ります。
この記事のポジションはあくまでも、業界とユーザーのどっちの気持ちにも与しない
狭間のような第三者としての冷めた分析です。

後者については、この記事が既に自分の行動を意味しています。
自分は立場的に本当に末席で、意思決定ポストとはそれこそ天と地ほどの差があります。
また人脈やコネを駆使することで意思決定に関与するにしても、
そういった世渡りが割と致命的なレベルでできないので、これもまた無理です。
よってこのブログ(もしくはtwitter)というSNSの片隅でささやかな主張を行い、
ほんの少しでも動きを喚起できればなどと考えているわけです。


というわけで、果たしてどれほどの力か分かりませんが、
今はこの記事が少しでも何かの働きを為せることを期待しましょう。



以上、乱文失礼



(※1)
陸上の長距離マラソンと短距離走の違いと考えれば分かりやすいでしょう。
厳密には、それぞれ必要な体力の種類は違いますが、それについて、ここで踏み込んだ議論は避けます。
単純で感覚的な概念としての「体力」という枠で、両者を一緒に扱っておきます。

(※2)
この方法による最高傑作として、自分はFF5を挙げます。
ジョブ&アビリティシステムを中心とした、その圧倒的な自由度と奥深さは、
単純に存在する物量よりも遥かに大きな論理的増幅によるゲームボリュームを実現していると言えるでしょう。
今もってこれを超える作品は無いと見ています。

(※3)
よく言われる話として、ゲームは名作だからといって売れるとは限らないというのがあります。
これは売れ行きにマーケティング等々の外部要因が絡むためで、確かに事実でしょう。
しかしながら今日はSNSなどによって消費者が市場の主役であり、
とりわけ口コミはかつてないほど威力を持つようになっていると思います。
いわゆる「隠れた名作」は、その口コミによって光を当てられ、
果たして名作に相応しいだけの売り上げを得られる可能性があるというわけです。
また翻って広告ばかりで中身のないゲームは、その口コミによって悪評が広まり、
市場からの厳しい評価を受けることにもなるでしょう。

(※4)
もっともこういったプロセスは、別にゲーム業界に限った話ではなく、
近年の世界規模のパラダイムシフトによって全体的に見られるようになりました。
その意味では、これをもってゲーム業界の苦境を説明するべきではなく、
むしろ「ゲーム業界とて例外ではない」「ゲーム業界もこのパラダイムシフトに乗るべき」
という見方をするべきなのでしょう。

(※5)
この話は追究し始めると本当にキリが無くて複雑で、それこそ本が一冊書けるくらいです。
自分よりももっと事情に精通した博学でベテランの方が、経済学とかも交えて
総合的網羅的に分析した本を書いてくれないものかと思ったりもします。
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026 - Unlimited data 999; Loose relation zero

ゲーム業界の現状に関する分析、第3回です。
今回は、前回に引き続き「ユーザーとの縁の切れ目」について考えてみましょう。

パッケージソフトが抱えている構造的・宿命的問題に対しては、
一応ブレイクスルーらしきものは存在しますが
これらは前回説明した「縁の切れ目レベル1~3」からは飛躍した所にあり、
「レベル999&レベル0」とも言えるでしょう。

なお前もって言っておきますが、ここでブレイクスルーと言っているのは、
あくまで「問題に対する理屈の上での解答」というニュアンスであって、
それがビジネスとしてより優れていて高収益であることを、必ずしも意味しません。
(あるいは既に過当競争の様相を呈しているという見方もあるようです…。)


<終わりを設けないレベル999>

■ レベル999
 そもそもコンテンツとして終わりを設けない。
 ユーザーが飽きてしまったらさすがに縁が切れるものの、
 パッケージソフトの有限のコンテンツよりは長持ちが期待できる。
 例えばアイドルマスターなど。定期的継続的にコンテンツを配信するので終わらない。
 これによってユーザーはソフトを持ち続ける。

最近のビッグタイトルで言うとDQ9が挙げられるでしょう。
配信クエストやスペシャルゲストといった形式で、この方法を取っています。(※1)(※2)

その他の例としては、FPSとかTPSが挙げられます。
キャンペーンモードはかなりオマケや練習で、メインはオンライン対戦。
これもユーザーが飽きるか、もしくはプレイ人口が過疎るまで終わりは来ないというわけです。(※3)

もうひとつはMMORPGといったオンラインゲームです。
これはそもそもサーバー側でデータを持っている非パッケージのゲームなので、
理論上は無限にクエストを追加し、無限に遊ばせることができます。
まさに文字通りの終わらないコンテンツというわけです。
またレベルアップに要する時間が異様に長いといった調整を行うことで、
現状あるコンテンツを遊び尽くされないような仕掛けもあります。

またブラウザゲーといったソーシャルゲームも、
このオンラインゲームに含まれると言ってよいでしょう。

<始まりを設けないレベル0>

■ レベル0
 ユーザーとの縁というものをそもそも意識していない、もしくは割り切って最小化している。
 これは主にケータイゲームのこと。暇な時にちょっとだけいじる。
 ユーザーとゲームとが、もとより正面から取っ組み合う気が無い、極めて緩い結合。

これだけを見ると、まるでやる気が無いような印象を受けるかもしれませんが、
製作側がプロジェクトを小さくし、ユーザー側も気張ってやりこまなくてもいい形を求めると、
自ずとこういう答えに行き着くでしょう。

ただこの形には逆説的な作用も考えられます。
すなわち、緩い結合だからこそ、結構ダラダラと遊び続けてしまうということです。
また値段も小額なので、購入するにしても気軽にできますし、
中古で売るインセンティブも低いというわけです。(※4)

こういった意味でレベル0とは、縁を割り切って労力を小さくまとめ、
腐れ縁のようなルーズな関係をダラダラと続けるようなものだと言えるでしょう。

またこの点では、前述のソーシャルゲームも同じ部類だと言えます。
基本的に単純作業の集合体なので、ダラダラといじる際の場所が違うだけの話です。
レベル0とレベル999のハイブリッドだと考えられるでしょう。

<第3回まとめ>

前回の記事ではパッケージゲームの構造的問題について書きました。
すなわち、ボリュームを増すことで縁の切れ目を先延ばしする方法に偏り、
製作側とユーザーの双方が体力を費やしてしまうタフな構造になっているということです。

今回の記事では、これに対してブレイクスルーが一応は存在するということを説明しました。
・終わらないコンテンツ(レベル999)
・そもそも縁を割り切り、逆説的にゆるい結合を持つ(レベル0)

ただし、これは決して絶対的な解とは言えないでしょう。
レベル999のダウンロードコンテンツやオンラインについては、
それを運用するための技術や資本がまた必要になるので、全員が取れる方法ではありませんし、
また別種の体力を要求されるとも言えます。
レベル0のケータイゲームやソーシャルゲームについては、新規参入でこの方法を取るならまだしも、
今までパッケージで作っていた者がこの方法にするのは、もはや鞍替えに近いでしょう。

さて、こういう話になってくると、
「あれ、パッケージソフトって実はもう産業形態としてアレじゃないのか?」みたいな
どうしようもない結論にもなりかねませんが、これは一定の割合で真理です。
永遠に続く産業なんてものはこの世に存在しないので、
全ての産業は、時代に合わせて統廃合や鞍替えをすることを宿命付けられているわけです。

とは言え「ゲーム業界はもうダメだ」という結論は、ここでは出しません。
そんなことのために議論や分析をしているわけではありませんし、
むしろそれ以外の結論を少しでも多く見出そうというのが、私の立場です。

そういうわけで、次回は具体的にゲーム業界の今度の道について考えてみましょう。



以上、乱文失礼



(※1)
厳密に言えば、アイドルマスターの場合は追加コンテンツのデータそのものを配信しているのに対し、
DQ9の場合は、予めソフト内に仕込んでロックしておいたコンテンツに対し、
「それをアンロックする」という情報(フラグ)を配信しています。
前者は理論上無限にコンテンツを追加できるのに対し、後者は予め仕込んだものしかないので有限であり、
データ的な観点から言うと、両者は異なる概念になります。

ただユーザー視点では、どちらも等しく「追加コンテンツ」に見えるので、
この論旨の中では同じものとして扱っています。

また前者にしても、下位レイヤーとしてのデータの観点からは無限でも、
より上位レイヤーとしてのビジネス上の賞味期間は有限です。
そういった意味で、ユーザーが観測する限り、両者は等しく有限の概念となります。

(※2)
ちなみにDQ9で妙手だったのは、廉価版をかなり早く出したことです。
コンテンツにそろそろ飽き始める頃に中古相場を下落させてしまうことで、
中古に売るインセンティブを減らしたというわけです。
株式の「塩漬け」と言うと、ちょっとアレな例えですが、要はそういうことです。
(論旨からはズレるので脚注とします。)

(※3)
実はオンライン対戦にはもうひとつ、独特の強みがあります。
これはゲームのAIを相手にしたプレイをイメージすると分かります。

AIというのは(とりあえず今日の技術水準では)、動きがパターン化しがちだったり
アクションにキレが無かったりで、長くやっていると飽きてきます。
これはゲームの仕組みそのものに対する飽きなので、コンテンツではどうにもなりません。

対してオンライン対戦で人間を相手にする場合は、動きは千変万化、
アクションもキレがあったりするので、その部分に飽きるということはまずないでしょう。
(ただし、それだけ多彩に動けるようなゲームデザインは必要です。)

(※4)
実際にはケータイゲームを中古に売る仕組みは存在しないのですが、
仮にあったとしても、小額では売るインセンティブは低いでしょう。
手にする金額が低いというのもそうですし、また中古に売るという行為は、
ゲームの購入額をある種の損失と見なして、その損失補填を行う意味合いが伴うので、
購入額が小さい場合は、そもそも損失だという意識が生じないというわけです。

025 - Basic 3 levels of "Love is over"

ゲーム業界の現状に関する分析、第2回です。
今回は「ユーザーとの縁の切れ目」について考えてみましょう。

のっけから「縁の切れ目」とは何を言うものかと思われるかもしれませんが、
これはゲームデザインを論じる上で非常に重要なポイントです。

要は「いつまでプレイしてもらえるか?」ということなのですが、
特に商用ゲームの場合は、これに加えて後々のゲームの行方、すなわち
「そのゲームは手元に置かれるのか、それとも中古に売られるのか?」ということまでも含みます。

もちろん中には「ゲームは基本的に売らない」という方もいるかもしれませんが、
そういう方は中古云々の問題について完全に外にある存在なので除外します。
楽しんでもらえなければ、それはそれで残念ですし、評価としての損失でもありますが、
あくまでもここでは中古云々の問題にフォーカスする目的で、
「すべてのユーザーはゲームを中古に売ろうとする」という前提で話を進めます。

時にこの「縁の切れ目」ですが、これには幾つかのレベルがあると自分は考えています。
レベルが高いほど「良い切れ方」「素敵な別れ」をするというニュアンスなのですが、
以下ではこの「縁の切れ目レベル」を基準に話を進めていきましょう。


<基本の3レベル>

まずは最も基本的なレベルとして、以下の3つが挙げられます。

■ レベル1
 クリアする前に「つまらない」という判定を下され、早々に中古に売られる。
 結末としてはバッドエンド。ユーザーの期待とのミスマッチという場合もなくはないが、
 残念ながらゲームの作りそのものの失敗と見るべき。

■ レベル2
 一通りクリアしてプレイ終了。結末としてはノーマルエンド。
 ただそれ以上の思い入れは残念ながら獲得することができなかったため、
 「もういいや」ということで売られる。

■ レベル3
 一通りクリアしたが、周回要素があるとか、色んな遊び方が出来そうとかで
 「まだ楽しめそう」という判定になったもの。
 長く愛用され、ずっと手元に置かれるか、売られるにしても相当に後のこと。
 結末としてはハッピーエンド。

言うまでもなく理想的なのはレベル3でしょう。
しかしながら、このレベルに至るには色々と困難もあるわけです。

<レベル3の困難>

まず考えられるのが、周辺事情の変化です。
ユーザーサイドの価値観が多様化し、それに伴って市場がニッチ化し、
また散発的にしかゲームに時間を使わないといったライフスタイルの変化があったりと、
周辺事情がめまぐるしく変化している中で、
レベル3を確実に狙いすまして当てるというのは、恐らく無理でしょう。(※1)

またもうひとつ、製作の観点からの困難があります。
ひたすらレベル3を狙って作った場合、そういうゲームは何かと先鋭化するので、
外した時のダメージが凄まじいというリスクがあります。
個人製作でやる分には、そういうのは作る側の勝手だとも言えるでしょうが、
企業の商品となると、このリスクは許容しがたいものになります。(※2)

これらのことを考えると、より無難な方針として以下のような所に落ち着きます。

 「基本はレベル2を意識し、そこでクリア時間を延ばしていく。
  その上で、チャンスがあればレベル3を狙っていく。」

そしてこれを実践する際の、最も一般的な方法として挙げられるのが
「ゲームのボリュームを増やす」です。(※3)

<ゲームのボリュームの効果>

ゲームのボリュームが多いことには、以下のような効果があります。

・クリアまでの時間が長くなる
 →とりあえず要素を突っ込めばできる。
  (ただし作業感満載とかあまりにまずい仕込みだとレベル1になるおそれあり。)

・クリア後でも遊べる余地がある
 →レベル3を狙える。作りが甘いと効果を発揮しない。

・クリア後の周回プレイを促せる
 →レベル3を狙える。作りが甘いと効果を発揮しない。

注目すべきは、最初の1個と後の2個とで性質が違うという点です。

とりあえずボリュームを突っ込んでおけば、よほどの下手を打たない限り、
レベル2を確保し、クリア時間を延ばすことができるでしょう。
これで上記の方針の基本部分は達成されます。

しかしこれより上、レベル3を狙うとなると、
そこには優れたゲームデザインが要求されるでしょう。
その試みが困難で、必ずしも成功するとは限らないというのは、既に述べた通りです。

そうなると、ゲームのボリュームのに期待する効果というのは自ずと
「クリアまでの時間が長くなる」という所に落ち着いていき、
やがて暗黙の言語として「ゲームボリューム」=「クリアまでの時間」という意味を
持つようになっていくわけです。(※4)

<第2回まとめ>

現状のゲーム業界は、このようにして「とにもかくにも」「とりあえず」という具合で
ゲームのボリュームを増やすという流れになっています。
その主たる目的は、クリアまでの時間を延ばし、縁の切れ目を先延ばしして、
中古として売られるのを遅くすることにあります。

しかしながら、ボリュームを増やすのにはコストがかかります。
つまり資本やマンパワー、すなわち「体力」が必要になります。

しかしながらこの「体力」については、前回の記事で説明した通り、
現状でかなり無理が来ていると言えるでしょう。
その点でパッケージソフトが抱えている構造的・宿命的問題だと見ることができます。

これに対して現在、ブレイクスルーらしき方法は一応存在するわけですが、
それらについて次回は解説することにしましょう。



以上、乱文失礼



(※1)
もちろん数々の分析や経験則によって、当たりをつけたり、確率を高めることは可能でしょう。
しかし世に出すに当たって、僅かな疑問も迷いも不安も無く成功を確信しており、
果たしてその通りに成功させることは、まず不可能だと言うべきでしょう。

(※2)
一部の名作の誉れ高い作品は、その高い志としてレベル3だけを狙うこともあるでしょう。
ただそういうのは一握りのトップクリエイターだけができる名人芸の領域なので、
ビジネス一般のモデルとして見なすには無理があると思います。

(※3)
理系的に解釈すると「やりこみ要素」と「奥深さ」との積算の総和が
ボリュームという風にイメージできるでしょう。

例えば、1~n番目までのやり込み要素があるとすると…
・i番目のやりこみ要素:ei
・それに対応する奥深さ:di
・ゲームのボリューム:v
としたとき、以下のようになります。 
             n 
    v = eidi 
            i=1


本当は各々のやり込み要素が相互に及ぼす影響もあるのですが、
そこまで織り込むと本格的にわけが分からなくなるので、ここでは省略します。
あくまでイメージを掴むのが目的で、厳密な数理的モデルを求めたいわけではありませんので。

(※4)
「ゲームボリューム」という概念に対しては、
単に「クリアまでの時間」という一元的な解釈ではなく、
論旨のような多元的な解釈を努めて行うべきだというのが自分の主義です。

024 - So what's next after the dream?

さて、今回はゲーム業界の現状に関しての話を書いていこうかと思います。
今後4回に渡るかなり長丁場の記事なので、どうぞお暇な方はお付き合いくださいませ。

<この記事のポジション>

まず最初に、この記事のポジションを明らかにしておきます。
この記事はあくまでも私の個人的な分析によるもので、
これをもって業界のコンセンサスのようにする意図は一切ありません。
その点はゆめゆめお間違えのないようお願いします。

<自分のポジション>

次に、これを書くに当たっての自分のポジションを明らかにしておきます。

自分は一応この業界の末席で仕事をしている者ですが、
以下の分析には、業界人だけ知っているようなディープな事情は一切絡めていません。
また業界の事情を並べて、それを理由に言い訳をするようなものでもありませんし、
かと言ってユーザー側の言い分を鵜呑みにすることもしません。

すなわち、業界とユーザーとの中立の立場で話を進めます。

ただこれは、努めて中立に立つという立派なものではありません。
自分は業界人としての意識がかなり薄く、
かといってユーザーとしてゲームに熱中しているというわけでもないので、
結果的に業界側とユーザー側との狭間の、どっちつかずで中途半端で第三者的な所に
立っているというのが実情です。

とは言え、それでも第三者には変わりありません。
また狭間にいるからこそできるような(割と冷めた)考え方もあるでしょう。


というわけで、前置きはこの辺にして本題に移ることにします。
まず今回は、ゲーム業界の現状を概観していくことにしましょう。


<巨大化・複雑化>

個人的に最も感じているのは、やはりプロジェクトが複雑化・巨大化しすぎているということです。
まず動き出すまでに時間がかかり、その後の作業は多岐に渡ることで
右手のやっていることを左手が知らないという状態にもなりやすく、
そして完成までにも歳月を要するわけです。

これは機動性として見ると、ケータイゲームとかの小規模プロジェクトには圧倒的にかなわないでしょう。
何より人材・資金・技術といった点で凄まじい「体力」を要求されます。

ではゲーム業界にその体力があるのかというと、自分はかなり疑問視しています。
各社の内情を知るよしは無いので、あくまで想像や勘なのですが、
中小および下請けは、まず疲弊していたり、無理をしていると思います。

では大企業は大丈夫なのかというと、これもまた疑問だと思います。
事業規模だけ見ると、いかにも体力がありそうにも見えますが、
実際のところは同様に疲弊や無理があるのではないでしょうか。
むしろそういう所が作るゲームほど大規模になる傾向があるので、
それだけ体力を要求されますし、またそういうプロジェクトは高度に分業化するので、
多数の人材を単純作業で使い倒すという傾向は否定できないでしょう。

ここで自分が危惧するのは、このまま大規模プロジェクト、
あるいは「大規模的発想」プロジェクトのままで突っ張ってると、
いつか業界が倒れてしまうのではないかということです。

そもそも大規模化に及んだ過程というのは、
かつての限られた表現しかできなかったファミコンの時代から、
表現の夢を追いかけて膨らませ、今日まで来た過程だと言えるでしょう。
そしてそれ自体は、確かに素晴らしいものです。

しかしながらこの辺で、引き際というかブレーキのかけ所を見付けられないと、
崖に突っ込んで自爆してしまいかねないのではないでしょうか。

<見直しの必要性>

ではそのブレーキとは具体的に何なのかというと、
これは総花的なゲームの見直しだと、自分は考えています。

今のゲームは「やりこみ要素」とか言って、何でもかんでも詰め込む傾向がありますが、
これは互いにとっての体力の浪費を招きます。
すなわち製作側は作るのに大変だし、プレイする側もプレイしつくすのに大変で、
双方共に体力を使うタフな構造になっているわけです。

これはやはり見直した方がいいと自分は思います。
ゲームの売りをはっきりさせ、そこに力を注ぎ、それ以外は(あえて悪く言えば)手を抜く。
そうすれば体力がもつし、プロジェクト自体もシェイプアップされ、もう少し動きやすくなるでしょう。
より挑戦的な企画も出やすくなるはずです。

<メディアの変遷>

問題なのは、そういったことをユーザーが許すかどうかですが、
自分は大筋でこれが許される「状況」が出来つつあると思います。
その根拠としては、続編やリメイク、似たようなゲームの再生産に飽きたという
ユーザーの声が前から聞かれているというのもありますが、
より大局的なものとして、昨今のメディアの変遷が考えられます。

ケータイなどの様々なメディアが出てきて、消費者はそれらに散発的に時間を注ぐようになりましたが、
こうなると、ゲームをどっしり腰をすえてやるというスタイルは少数派になっていくでしょう。
膨大に詰め込まれたやりこみ要素を消化している時間も無いはずです。
手軽で短時間でできるブラウザゲームとかが人気なのは、その証左と言えるでしょう。

そういった事情を考えてみると「やりこみ要素が無いとダメ」というのは
実は幻想になりつつあるのではないかと思ったりもします。
製作する側は、熱に浮かされたように「やりこみ要素入れなくちゃ」と言いはしますが、
本当にユーザーはそれを求めているのでしょうか?

<引き算の発想と体験の提供>

総花的なものに対する対処として、ひとつヒントになりそうな人物がいます。
それは昨今話題にもなっているスティーブ・ジョブスです。

iPhoneやiPadは、仕様的には総花的どころか、むしろ足りないくらいなのですが、
彼はそこで「新たな体験」を提供し、ユーザーを大いに魅了しています。
この「引き算の発想」は実に示唆的なものです。

実際の所、昔のゲームもそういう風にして歩んできたはずです。
ファミコンは、それ自体が家庭用ゲームという新たな体験でした。
スーファミは、より進化した表現として、やはり新たな体験でした。
プレステもそうです。FF7のムービーが度肝を抜き、3D世界の新たな体験がありました。

辛うじてPS2も一応、より進化した3D世界としては
新たな体験だったかもしれませんが、この辺りから怪しくなってきたと思います。
新たなハードに対して、主立ってはグラフィック面の進化だけで新味が薄れてきたのです。
同時にゲームそのものも、どこかで見たような骨組みに、
その進化したグラフィックだけを付けたようなものになってきました。
後はやりこみ要素を盛り付けるだけです。

PS2の時代が、ユーザーがゲームにかじり付いてくれた最後の時代かもしれません。
そうなると今こそ、ゲームにおいても「引き算の発想」で仕様をシェイプアップし、
「体験」で魅せる方向にシフトすることはできないだろうかと思うわけです。

とは言っても、全員にジョブズのようなスタイルを期待するわけにもいきません。
体験を提供するにしても、言うほど簡単ではないでしょう。
またこういったものは一種の名人芸に該当するのですが、
会社という組織単位でやるビジネスとしては、名人芸(要は個人の持つ類稀な才能)に
大きく依存するような方法は、堅実性や安定性に欠け、好ましくないというのも事実です。


<第1回まとめ>

ここまで、ゲーム業界の現状について概観しました。

かつて製作側とユーザーは共にゲームの発展を夢見て「より良いゲーム」を求めてきました。
それが今日のゲームの技術的成熟をもたらしたことは、疑う余地が無いでしょう。

しかし現在は、それが行き過ぎて製作側もユーザー側も体力を使うタフな構造になってしまい、
「求めすぎるが故に失う」という結末に向かいつつあるように思えます。

このままでは双方にとってのハッピーエンドは失われてしまうでしょう。
ここに何らかの対処が必要なことは論を待たないわけですが、そういったことも含めて、
次回以降の記事で触れていくことにします。



以上、乱文失礼

023 - Shade of them: score, trophy, achievement

実績、ゲーマースコア、トロフィー。
前回はこれらXBOX360やPS3がもたらした「発明品」の「功」の面について書きましたが、
今回は「罪」の面について書いていきます。


<作業化>

実績の中には「敵を100体倒す」とか、数をこなすタイプのものが少なくありません。

このタイプにおいて、製作者側の意図というのは、
「長くプレイしてくれた人がいずれ取れる」という風にして、
目標というよりも「過程を楽しんだ後に自然に置かれているご褒美」の色合いが強いのですが、
これをプレイヤーが受け取った時、残念ながらその通りに伝わることは少ないでしょう。

すなわち「実績のために100体倒さなきゃ!」という具合に、
過程を楽しむことが完全に吹っ飛び、強迫観念からプレイするようになってしまうわけです。
俗に言う「作業プレイ」というものです。(※1)

<行動の束縛>

当たり前の話ですが、プレイヤーはゲームの枠組みの中において
あらゆる自由な遊び方ができます。

しかし、ここに実績という要素が絡んでくるとどうなるでしょうか?
もっと具体的に言えば「実績に絡む遊び方」と「そうでない遊び方」が区別された時、
プレイヤーの遊び方にどのような影響を及ぼすでしょうか?
その答えは、以下のように言えるでしょう。

 「実績に絡む遊び方に価値を見出し、またそうでない遊び方の価値を低く見る。
  これによって前者の遊び方が多くなり、また後者の遊び方は少なくなる。」

ここにおいて、プレイヤーの遊び方の選好には実績が影響しており、
完全な自由意思とは呼べないでしょう。
換言すれば、特定の遊び方と実績とを繋げることによって、
プレイヤーの自由なプレイが束縛されているということになります。

そもそも、自由意志に基づくあらゆるプレイは平等であり、
そこには価値という概念そのものが存在しなかったはずです。
しかし実績によって、それら遊び方に対して価値の概念(およびそれに係る重き軽き)が
持ち込まれてしまったというわけです。

これについては、以下の2項目で詳しく掘り下げましょう。

<実績不関与行動の否定>

いま、敵Aと敵Bがいたとして、実績に「敵Aを100体倒す」というのがあり、
敵Bに関しては何の実績も無いと仮定しましょう。

実績が発明される前は、あらゆるプレイは平等なので、
「敵Aを100体倒す」と「敵Bを100体倒す」もそれぞれ平等であり、
プレイヤーは自由意志でそれらを好きにプレイできます。
より端的に言えば、「敵Bを100体倒してもよい」ということになります。

しかしここに上記の実績が入ってくると、「敵Aを100体倒す」ことに価値が生まれ、
また同時に「敵Bを100体倒す」ことを相対的に無価値としてしまいます。
かつては自由意志のもとに認められたプレイが、
あたかも実績によって認められなくなったように感じられてしまうわけです。

<楽しみ方の指定>

本来ゲームというのは、ありとあらゆる楽しみ方が模索できるはずです。
それはプレイヤーの自由意志であり、またゲームの懐の深さというものでしょう。
そして「楽しみ方を探す」ということ自体、ゲームプレイの一環であるとも言えるでしょう。

しかしながら、実績はそのあり方を歪めてしまう恐れがあります。

すなわち特定の遊び方と実績を繋げることで、
「こういう風に遊べ!」という風に楽しみ方を指示しまうわけです。
(もちろん、製作側にそんな束縛的な意図は無いのでしょうが。)

普通のプレイヤーは、こう指示をされては、まずそれに従うでしょう。
またそうして行うプレイを楽しんでいる分には、別に問題はありません。

しかしこれは裏を返すと、指示された以外の楽しみ方を
プレイヤーが探さなくなってしまうという弊害をもたらす可能性をはらんでいます。
プレイヤーの自由意志が潜在的に奪われてしまうというわけです。

<社会的価値>

これはゲーマースコアの話です。

数字というのは不思議なもので、とにかく上へ上へ、
高得点を取りたいという風に人間を駆り立てるわけです。
このゲーマースコアも同様に、とにかく数々のゲームで実績を取得して
より高いスコアにしたいという風にプレイヤーを駆り立てるものでしょう。

ただここで問題になるのが、ゲーマースコアの社会的価値です。
もっと率直に言えば「スコアが高いと何か偉いのか?」ということで、
更に言えば「市場価値といった実効性のある有用な価値に繋がるのか?」ということです。

結局のところ、ゲーマースコアというのは、
XBOX360のプレイヤーコミュニティ界隈におけるアピール以外に
何ら社会的価値を持っていない指標なのです。
そんな無意味なもののために、プレイヤーが多くの時間と労力を割り当て、
機会損失(※2)を発生させるように仕向けてしまっているわけです。

これがトロフィーだと、もう少し可愛げがあるでしょう。
なぜなら数字が絡んでいないからで、せいぜいコレクションの域に留まります。
しかしゲーマースコアのような数字になると、あたかもそれが本人の価値を示すような
錯覚を生み出し、過剰なまでに駆り立ててしまうわけです。
だからこそ罪深いのです。


<まとめ>

というわけで、前回と今回とで、実績の「功罪」について分析しました。
内容が内容だけに、やや小難しくて陰気な議論になってしまいましたが、
ゲームデザインを論じる上では、こういった認識を持っておくことが必要でしょう。

そしてこのことは、製作側はもちろん、プレイヤーの側にも言えるのではないでしょうか。

何でもかんでも、ただ与えられるままに耽溺するのではなく、
これら功罪の側面をよく知ったうえで、適切で節度ある利用を心掛ける。
それこそが、自立した賢い「消費者」の姿なのではないかと思います。



以上、乱文失礼



(※1)
もちろん中には、その作業すら楽しめるように自分で工夫してしまうような
スマートでクレバーなプレイヤーもいるかもしれませんが、
それはあくまでも任意の自主努力なので、そこに議論の基準を置くわけにはいかないでしょう。

(※2)
例えばあるプレイヤーが1日をスキルアップに費やすことで
A円の市場価値を創出できると仮定します。
するとこのプレイヤーが1日をゲームに費やすことは、
「その1日をスキルアップに使っていれば得られたはずのA円」を失ったことと同義です。
これが機会損失の概念です。
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